開けきれない箱

暇人が様々な物事に関しての意見・考察を書きます。https://twitter.com/HKnumber

うざいキャラの必要性について

うざいキャラの存在意味は何だろうとふと思った。

これまでいろいろな作品でうざいキャラを目撃してきた。

例を挙げると、サマーウォーズで登場する警察官の翔太、聲の形で登場する眼鏡の川井などである。

うざいキャラを見ると恥ずかしいという感情と苛立ちが沸き上がる。

共感性羞恥心という言葉はその後に知った。

どうしてこのようなキャラを登場させるのか?という疑問が同じようなキャラを見るたびに浮かんできた。

今回はこの疑問に僕なりの回答を考えていこうと思う。

 

①物語の展開性を感じさせる。

 ●ジェイソンを代表とするホラー作品で登場する殺人鬼は、人物を追いかけるときゆっくり歩く場合が多い。

これは尺を伸ばし、助かるか助からないかわからないドキドキ感を視聴者に味合わせるためである。っということをテレビで見た。

 ●ウザキャラはその類まれなるどんくささや自分勝手さによって、物語の展開を遅らせる。これによって物語の行方をくらませ、視聴者に様々な未来を想像させるのである。

 

②物語に視聴者を熱中させる。

 ●ウザキャラによって視聴者の感情が良くも悪くも揺さぶられる。正直僕は苦手で画面から目を背ける場合も多いのだが、、、

それによって、視聴者がより物語に感情移入をし易くなっているのである。

 

③主要キャラをより好きにさせる。

 ●主人公がたまにうざいこともあるが、ほとんどの場合ウザキャラはサブの役どころである。ウザキャラを嫌いになることによって、主要キャラのかっこよさや気持ちよさを際立させるのである。

 

多分こんな感じ。

個人的にはウザキャラをうまく描く作品は良いものが多いと感じている。

ではでは

 

遺書

本やネットなどを通じて、世の中についての知識が増えれば増えるほど、生きている意味がどんどんなくなっていく気がした。

 

周りの人が虫やロボットに見えるという人がいたが、機械にしろ、昆虫にしろ、動物にしろ、自分以外の人間だってもちろん、何を考えてるかが分かることなんてない。

 

自分を客観的に見ることは不可能で、主観的な自分が自分である保証はどこにもない。

 

それでも僕は今日も寝て、明日は起きるだろう。

欲求に従って毎日を過ごしていくことはこれからも続いていく気がする。

 

そこに意味があるかと問われた時、答えられる人間はどれほどいるのだろか、

大勢の人は何を考えて生きているのであろうか、

"他の人間のために"という言葉ほど、システマチックで気持ちの悪い言葉はないように思える。

 

いつ訪れるかもわからない終わりを、自分の判断で決めるのは果たして不幸なことだろか、間違った行動なんだろうか、

 

システムに逆らう方法は欲求に反した行動しかないのではないか、

 

それこそが唯一人間に与えられた自由ではないだろうか、

 

そのようなことを毎日考えていることに最近気づいた。

これからもそれが続くのは耐えられない。

そう思った。

 

 

 

how to が出るまでが全盛期

人間にも言えることだが、何事にも流行りなどの浮き沈みがあり、そのタイミングを掴むのは非常に難しい。

 

早熟型や大器晩成型という言葉があるように、人には人の、物事には物事の衰退までのパターンがある。

 

そのパターンを掴む一つの目安として、"how to が出ているかどうか"というのが有効ではないかと先程思いついた。

(たぶん、他の誰かも言ってると思うが自分の言葉で表現することに意味があると思う。)

 

例えばブログの全盛期は、2020/06の現在より2000年代と言った方が適当だろう。

広告として使えるメディアが少なかった当時、ブログはアフィリエイトという言葉とともにどんどん広まっていった。

 

では現在のブログはどうなっているか?

 

ブログの作り方、ブログでの稼ぎ方など"how to"と分類される記事が多くなってきているように感じる。

イケハヤという人やキメラゴンという人、マナブという人など、自らの経験を生かしたブログ作成に関する記事である程度の認知を得ている人もいるようだ。

 

広告先としてのブログは今となってはそれほど魅力的ではなく、ブログ全盛期後に発達したInstagramなどのSNSYoutubeなどの動画が主体のメディアが注目されている。

 

これに似たことは他にも応用できる。

Youtubeには登録者の増やし方や動画の作り方などの"how to"が多くあり(別目的のhow toももちろんある)芸能人と言われる人も動画を投稿するようになった。

プログラミングスクールはここ数年で注目されるようになったと感じる。

Twitterのフォロワーの増やし方みたいなサイトも見たことある。

仮想通貨(Bitcoinなど)で億り人という言葉がメディアで取り上げられたのち、Bitcoinは暴落した。

 

情報を発信するときのメディアがなくなることはないため、全盛期だろうが衰退期だろうが関係ないという考えもある。

 

ここで重要なことは、"全盛期"と言われるものが過ぎたとして、存在価値ややる意味がないというわけではないということだ。

 

ニコニコだってサービスが終了しているわけではなく、メンタリストのDaigoさんみたいに収益を上げている人もいる。

 

ただ、"how to"が多く出回っているということは、なにかを提供する側の利益に気づき新たにはじめる人が多く、想像していたメリットを享受することが難しくなっているということだ。

 

お金は基本的にみんながやりたくないこと、または出来ないをやるから貰えるのである。

ではでは

 

 

作品の完成度と要素の多さは基本的に反比例する

この文章で言いたいことは、完成度の高い作品を作る手っ取り早い方法は、なるべく作品に関係する要素を少なくするということだ。

 

簡単な例でいくと、手を使って真っ白なキャンパスを真っ黒に塗りつぶすのと黒で格子状に線を引くのだったら、前者の方が圧倒的に完成度を上げることが容易である。

 

もちろん、前者にもにも色のムラなどの完成度を下げる要素があるが、後者の直線を引く難しさやもちろん色のムラなど完成度を下げる要素は前者よりも多い。

 

ヨルシカの楽曲を制作しているn-bunaもなにかのインタビューで同じようなことを言っていた。

事実彼はメディアにほとんど顔を出さず、なるべく自分の作品から自分の影をなくすようにしている。

 

このことは多くのことに当てはまるように思える。

Apple製品はデザインがシンプルであり、ネットで活躍する歌い手たちの中には顔を出さない人が多く、それによって作品そのものの完成度が高まっている。

 

また、要素が少ないことは私たちにとっても理解がしやすいという面で好都合だ。

MVの情報量が多すぎると歌詞の内容を同時に理解しにくい。

 

っとまあ、オッカムの剃刀的な文章ではあるが久しぶりに書いてみた。ではでは

意味なしジョークと暇つぶし

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 意味なしジョークと暇つぶし、どちらも高級とされるものだ。

無意味だと思えることをできるなんて素晴らしく、それこそが豊かさを示す。

その様に考えると犬や猫などの動物達は人間と共生することによって、随分と豊かになったものだ。

今日、人と戯れる犬は珍しくない。

それ以外の動物の多くは生きるのに必死な様に思える。

それでも動物の死骸をあまり見かけないのは、色々な意味での整理と掃除が行き届いているからである。

生きるのに必死になれない僕達は、ゲームをしたり映画を見たりするのに必死だ。

この世の中から娯楽と呼べるものがなくなったら、多くの人が死んでしまうのだろう。

やる事がなくて一時的に人は増えるかもしれないが、、、

無意味とされる行動も、人間においての生きるという言葉の中に含まれている気がする。

電車に飛び込む以外の時間の使い方を知ることが重要なのかもしれない。

コロナウィルスの影響で子供が増えたら面白いと思う今日この頃、なんとなく書いてみた。

ではでは

言葉の意味を私たちはわかっていない。

最近よく考えることの一つに言語の問題がある。

簡単に言えば言葉の意味を僕たちは良く考えていないということだ。

文章を読む。

確かにこの文章をあなたは読んでいる。

しかし、どういう意味かあなたは本当にわかっているのだろうか。

意味といわれても、書いている通りの意味しかないと考える人が多いと思う。

それでは、この文章を読んでなにかしらのイメージを持っただろうか?

例えば、犬と言われれば、私たちは何かしらの犬をイメージできる。

それはゴールデンレトリバーかもしれないし、シェパードかもしれない、はたまたチワワかもしれない。

名前がわからない犬を思い浮かべる人もいる。

犬がわからない人もいるかもしれない。

物や生物の名称は基本的にある程度共通したイメージを私たちにもたらす。

では文章はどうだろうか?

本を読むときに、すべての文章をイメージに変換することは不可能である。

あなたは“説明する”という言葉をイメージできるだろうか?

ここで間違ってはいけないのは、黒板や教師など実際に説明している風景をイメージしたことで、“説明する”という言葉をイメージした気になってはいけないということだ。

私たちが思っているほど、私たちは言葉についてよく理解できていない。

なぜ、理解していなくても実際に人と話せるのかというと、共有しているからである。

例えば、”天気がいい”という言葉は、空が晴れているということを指すとみんながしっている。だから伝わるのだ。

逆に言うと”天気がググっている”という言葉は、何をさすのかわからない人が多いと思われる。(少なくとも私はわからない)

行動を示す言葉には、名称がついている。共通する具体例(具体的なイメージ)もついてくる。

犬にお手を教えるのと同じである。

では、概念はどうだろうか?

”命”という概念には、名称がついている。しかし共通する具体例はついてこない。

(共通しないイメージはついてくる)

ある人にとっては、命にろうそくのイメージを持っているかもしれない。

ある人にとっては、命に時計のイメージを持っているかもしれない。

ある人にとっては、命に銀河のイメージを持っているかもしれない。

少なくとも、誰もがこれって”命”と呼ぶものは存在しない。

それでは、私たちは”命”という概念について話すことはできないのだろうか?

これは知ってのとおり、話すことはできる。

文章を書くこともできる。

「命は尊い」という言葉も存在する。

なぜか

それは私たちが分からないを分からないままにしておけるからである。

”神”はいるか?

分からない。

”神”がいると証明できるか?

分からない。

”神”の存在について話すことができるか?

できる。

”神”の存在について文章を書くことができるか?

できる。

別にこれは”神”という概念に限ったことではない。

”教育”、”知らない大勢の人”、”夢”、”世界”

私たちは概念といわれるものについて深く考えずとも、コミュニケーションをとることができる。

説明するということを説明することは難しい。

しかし、何かを説明することはできる。と思っている。

本を読むとき、文章を分かっているか?と言われれば、分かっていると断言するのは難しい。

そもそも”分かる”という意味をよく分かっていないのだから。

っとまあ、最近気になったことを久しぶりに文章という形で書いてみた。

ではでは

進撃の巨人で学ぶ敵という存在

進撃の巨人という作品を読んでいて思った、敵という存在について書こうと思う。

 

ここで書きたいことは、情報統制と思い込みにらよって、争いは起こってしまうということだ。

 

作品を読んでいればわかると思うが、読んでいない人もいると思うので、勝手に日本を舞台にして説明してみる。

 

日本人は魚人(結構強い)になる能力を持っていて、中国で捕虜になっていた日本人が魚人にされ(この時点で意識がなくなる)日本に向かって放たれている。

←国に関して特別な意味はない、わかりやすさに重きを置いている。

 

日本にいる日本人は魚人になる能力が自分にあることが分からず、海から攻めてくる魚人を侵略者と見て敵対している。

さらに中国という存在を知らない。

 

中国は日本人の魚人になる能力が怖くて日本を攻めている。しかし、日本にいる日本人はそんな気はない。

←世界には自分たちしかいないと思っている。

日本は魚人が怖くて敵対している。しかし、本当の敵は中国である。

 

みたいな感じである。

違う部分もあるかもしれないが、それは気にしないことにする。

 

進撃の巨人を見て思ったのは、

これ、戦わなくて良くね?

ってことである。

←決して作品の批判ではない。

 

このことはTwitterなどのSNSでも見ることができる。

限られた文字数(制限された情報)とそれに対する意見(一種の思い込み)、それに同調圧力のようなものとおふざけが相まって、どーでもいい争いが起こっているように思える。

 

もちろん、様々な意見があることは問題ではなく、それによって議論が起こるのは必要なことであり、面白いことでもあるが、誰かを誹謗中傷することではないと思える。

傷つけるのは意見であって、相手そのものではないということだ。

 

久しぶりに何となく書いてみました。ではでは