開けきれない箱

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【投資小話】この中にジェリービーンズはいくつ入る?

 「ビンの中のジェリービーンズ」という実験は、こんな話だ。

 教室に先生がビンを片手に入ってくる。彼はポケットから一粒のお菓子を取り出して言う。

「この中にジェリービーンズはいくつ入る?」

 生徒は配られた紙切れに自分の予想を書き提出する。先生は予想を集計し、平均を出す。平均は、正解にずいぶん近い。こんな話だ。

 

 話を少しアレンジしよう。

 教室に先生がビンを片手に入ってくる。彼はポケットから一粒のお菓子を取り出して言う。

「この中にジェリービーンズはいくつ入る?」

 生徒は配られた紙切れに自分の予想を書き提出する。先生は予想を集計し、平均を出す。

「正解は?」と生徒は聞く。

「私にも分からない」

 先生は隣の教室へ行き、同じ質問をする。予想を集計し、平均を出す。

「正解は?」

「私にも分からない」

 また隣の教室へ行く。

 最後のクラスの予想を集計し終えた時、ある生徒が言った。

「正解を早く教えてよ! 気になって仕方がない!」

「分かった」と先生は言った。

 ポケットから一粒のお菓子を取り出す。先生はじっとそのひと粒を見つめる。

「どうしたの?」と生徒は言った。

「なんだかさっきよりも小さい気がする」それに、と先生は持っていたビンを持ち上げた。「なんだかさっきより大きい気がする」

「気のせいだよ!」と生徒は言った。

「これじゃやり直しだ」先生はお菓子をポケットに戻し、ため息をつく「また来るよ」

 

 教室に先生が入ってくる。彼はポケットから一粒のお菓子を取り出して言う。

「この中にジェリービーンズはいくつ入る?」

 先生は教室全体を見渡した。生徒はたくさんの0を配られた紙に書いた。

 

 ご想像の通り、ビン(容器)は会社でジェリービーンズはお金、生徒は投資家で先生は市場だ。

 18世紀のイギリスの経済学者アダム・スミスは需要と供給の関係を「神の見えざる手」と表現した。 ビンの中にどれだけジェリービーンズが入るか、誰にも分からない。

 

 先生が教室を出ていった後、ある生徒がクラスの予想を集計し平均値を出す。その紙を片手に隣のクラスに行く。

「平均値は?」

 隣のクラスの答えは、全く同じではない。2人は揃って、さらに隣のクラスに行く。なんだか数字の方向性が見えてくる。3人はさらに隣のクラスに行く。そうこうしているうちに、最初のクラスに先生が戻ってくる。

 クラスに戻ると先生が待っている。さっきよりもずっと大きいビンを持って。彼はポケットから一粒のお菓子を取り出して言う。

「この中にジェリービーンズはいくつ入る?」

 

 

無能と評価される本当の理由→欠点をなくさないと強みを見てもらえない

 美味しいウニは臭くない。先日、青森の市場で割りたてのウニを食べた感想は、臭くない、甘い、だった。思い返せば、旅行中、日本酒をいくつか飲んだが、美味しいと思ったのは酒臭くない、飲みやすい銘柄だった。

 

 人は欠点ばかり注目する。本能的に、危険を避けるためだ。失敗しないか、間違えないか、が最も生存に重要だがらだ。それは嗜好品にでも当てはまるのではないか。大抵の美味しいは、明らかな欠点がない、と同じで、その上で、強みがあれば高く評価される。

 

 物語は、人が失敗する話を基本としている。理由は2つ。

 1つは、失敗を知ることで自分の生存を高めれるから。

 1つは、物語の形式(因果関係の連続)とすることで、思い出しやすいから。

 

 後者、物語の形式(因果関係の連続)について補足する。人は原因と結果で物事を理解し、原因→結果という関係を論理構造と呼ぶ。だから、論理的思考に関するビジネス本は売れる。

 ここで注意して欲しいのは、原因→結果の関係が嘘でいい点だ。〜があったからなみなみが起こった、という形式が重要なのであって、その関係が本当に論理的(事実)である必要はない。受け取り側が、期待していれば(この表現については次の段落で説明する)、嘘でも構わない。

 

 最近、小説や脚本、広告やプロパガンダ、押し売りやセールスメールで使われる、人を操る技術について調べていた。

 簡単にまとめると、共感と信頼を元に期待をコントロールする、である。

 参考に、よくある自己啓発本の冒頭を形式的に表現してみる。

1. 過去:私は元々〜(仕事ができない、派遣社員、など)でした。←読者と同じ境遇だったことをアピールし共感してもらう。

2. 現在:今は〜(月収いくら、社長、など)です。←実績や肩書きをアピールし信頼してもらう。

3. 未来:これを読めばあなたも〜(私と同じように、など)なれます。←期待をあおる。

 

 補足。

 フックについて。一番最初に注意を引かないと読まれないため、タイトルや、1. の前の0. として、読者を惹きつける1文を入れるなど工夫が必要。

 信頼について。一貫性、というのも重要だ。ルフィが海賊王になるのを諦めたら、エンタメ系のYouTuberが急にビジネスし始めたら、どう思うだらう。

 意外性について。知っている危険には注意を払わない(知ろうと思わない)。フックと通じる部分もあるが、知っていると思ってたけど知らない(例えば、知らないと損するスマホの設定など)情報に、人は敏感だ。なぜなら、知っていると思ってた、というのは身近さ、知らない、というのは危険性を意味するため、身近な危険という最も関心のある情報だからだ。

 

 過去→現在→未来、の順に話を進めるのには理由がある。時間の経過こそが、人間が理解する最も原始的な、原因→結果の関係だからだ。

 

 期待について補足すると、これも嘘でいい。量子力学や波動を使ったスピリチュアルが良い例だらう。ありえるかも、と期待すればいいのだ。

 

 原因→結果の構造は思い出しやすい。物語は、その性質を利用し、危険を知らせてくれる。成功した広告は物語を利用している。なぜなら、広告の目的は、商品またはブランドを思い出してもらうことだからだ。

 人は知っている商品を買う。商品の機能は必要ではない。

 コスパが良い、というのは、価格の欠点がない、という意味だ。または、価格と期待の関係が良い、という意味だ。期待以下なら信頼もなくなる。

 強みを比べるのは難しい。似たような洗剤なら、価格(弱点)を比べるからだ。匂いや洗浄力ではない。反対に広告では、他の商品と比べられないため(あえて比べる広告もある)、機能の期待を高める。または、覚えてもらうため、危機感を高める。洗濯機が汚れる、など。

 

 話があっちこっちした。

 欠点をなくさないと強みを見てもらえない。と私は思っているが、例外はある。好き、だ。好きであれば、欠点を許せる。逆に言えば、欠点を許せている対象を、あなたは好きである。どうやれば、好きになるのか。思い出すことだ。

脱構築的なAI検索はできない。AI will disrupt the way we connect the dots.

AIは検索で発見は生まれない。

本を読んでもっとも感動するのは、関係のなさそうな知識がつながる時だ。最近ではセールスライティングの技術と催眠術の導入(前催眠)に共通点を見つけた。

スティーブ・ジョブズはConnecting the dots(点と点を繋げる)重要性を語ったが、AI検索でそれが生まれるだろうか。大規模言語モデルはネットの情報をよくまとめる。たいていの情報は、一行のプロンプトで手に入り、ユーザは満足する。

 

youtu.be

最近、東浩紀の平和と愚かさを読んだ。事前にデリダの脱構築の入門本を読んでいたため、彼の論法をある程度は理解できたと思う。脱構築とは、二項対立ではなく、第三の見方を模索する考え方だ。

建築と破壊の中間。彼はYoutube(34:28)で、脱構築的なプロセスを、ある話題について話している間に、だんだん話題がそれていって気づいたら別の話題について話している、みたいな感じと表現している。

youtu.be

AI検索で脱構築が起こるだろうか。ある知識と別の知識が連続的につながることはあるだろうか。どうも拡張性のない知識が増えていくような気がする。

戦争の跡地は公園となり、博物館や団地ができる。広島の平和記念公園では今も記念碑が増えている。100年後には、核爆弾と全く関係のない建造物ができているかもしれない。でもそれらは時間と場所という共通点をもち、連続的に繋がっている。

昔は伝聞によって知識が伝えられた。識字率が高まるとちらしのようなものができ、紙が普及すると本があらわれた。ネットの海は情報の断片が散らばり、AIがすぐに捨てられるポストイットのような形で情報を要約する。情報の形態とテクノロジーは、だんだん小さくなる波のように変化している。次はスマートグラスに映る1行の説明だけになるかもしれない。

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AI doesn’t lead to discoveries through search.

What moves me most when reading a book is when seemingly unrelated pieces of knowledge come together. Recently, I found common ground between sales writing techniques and the induction phase of hypnosis.

Steve Jobs spoke of the importance of “connecting the dots,” but can that happen through AI search? Large language models are good at summarizing information from the web. Most information can be obtained with a single-line prompt, and users are satisfied.

I recently read Hiroki Azuma’s *Peace and Folly*. Since I had previously read an introductory book on Derrida’s deconstruction, I think I was able to understand his line of reasoning to some extent. Deconstruction is a way of thinking that seeks a third perspective rather than relying on binary oppositions.

It lies between construction and destruction. In a YouTube video (34:28), he describes the deconstructive process as being similar to when you’re talking about a certain topic, but the conversation gradually drifts off course, and before you know it, you’re talking about something else entirely.

Could deconstruction occur through AI search? Is it possible for one piece of knowledge to connect continuously with another? I can’t help but feel that we’re accumulating more and more knowledge that lacks any kind of scalability.

War-torn sites become parks, and museums and housing complexes are built. At the Hiroshima Peace Memorial Park, new monuments are still being added. A hundred years from now, structures completely unrelated to the atomic bomb might be standing there. Yet they share the commonalities of time and place, and are connected in a continuous chain.

In the past, knowledge was passed down through word of mouth. As literacy rates rose, leaflets emerged, and with the spread of paper, books appeared. The vast ocean of the internet is scattered with fragments of information, and AI summarizes that information in a form akin to a Post-it note that can be discarded at any moment. The form of information and the technology behind it are changing like waves that grow progressively smaller. The next step might be nothing more than a single line of text displayed on smart glasses.

身体的フィードバックがないと成長しない

 五感からフィードバックがあると成長する。だからスポーツや絵や音楽など身体を使った技術はどんな人でも上手くなる。逆に文章術みたいなものは、頭の中であーだこーだやる限り成長しない。他人から直接の感想をもらったり、音読したり、プリントアウトして眺めたり、なるべく客観的な(しかも五感に直接響く)フィードバックが必要だ。だから、私の文章はいつまでもつまらない。ノーベル文学賞をアジア人女性で初めて受賞したハン・ガンは五感を使って小説を書いてるといった。中にはそういう特殊な人物もいる。

株価チャートがギザギザな理由

ランダム・ウォーク

金融商品の値動きには規則性が無く、過去の変動とは一切関係ないとする仮説。今後の値動きを予測するうえで過去の値動きは参考にならず、過去の値動きの変動をパターン化することで投資判断材料にするテクニカル分析の有効性を否定している。現時点での株式市場には利用可能なすべての新たな情報が直ちに織り込まれており、株価の予測は不可能であるという学説の効率的市場仮説と密接に関連する。

ランダム・ウォーク|証券用語解説集|野村證券

 

そして、この枝雀理論でもっとも重要なことは、すべての笑いが「合わせ領域(安心)」と「離れ領域(不安)」のあいだの変化として捉えられていることだ。これはシトフスキーが「快楽は刺激の水準変化である」」とした定義と完全に一致する。(中略)「離れ領域」の外側には、聞き手がまったく理解できない「外宇宙」が存在する。話しを外宇宙まで持っていいってしまうと、それは快楽ではなくなってしまう。

投資依存症 森永卓郎 168p

 

ボリンジャーバンド標準偏差の考え方をチャートに応用し、移動平均線を中心(0)とした場合、ある期間の約68%の終値が入る距離を±1σ、約95%が入る距離を±2σとしています。

基礎からわかる!テクニカル分析入門⑪ 図でわかる!ボリンジャーバンド | みずほ証券

ボリンジャーバンド

桂枝雀の統一理論

 

【移動と翻訳】純文学とエンタメ小説の違いは感情があるかないか。

 ハリウッドは商売だ。誰でも知っていることだが、では何を売っているのか考えてみよう。それは人間の感情だ。感情的体験を映画やテレビという形できれいに包装して販売、年商一兆円を稼ぎ出しているのがハリウッドの正体なのだ。前にも書いたとおり、映画もテレビも「感情マシン」なのだ。

 「感情」から書く脚本術 カール・イグレシアス=著 島内哲朗=訳 17p

 ハリウッド映画はエンタメだ。ほとんどの純文学読者は、あれを純文学であると認めないだろう。

 よくある話題に、純文学とエンタメ小説の違いはないか、というのがある。海外にそんな区別はない、という話を聞くし、実際に区別したからなんだ、という意見もある(久しぶりに芥川賞がでなかったようですね)。

 

 エンタメが感情を売っているとするならば、純文学は欲望を売っている、といってもいいかもしれない。欲望は複雑な感情だ。プレゼントをもらってハッピーは感情で、嫌いな上司がミスをしてハッピーは欲望だ。

 

 もう一つの考え方として、エンタメが感情を売っているならば、純文学は感覚を売っている、というのがある。これは純文学を芸術と捉えた場合だ。芸術は私たちに新たな感覚を提供していくれる。これは認知と言い換えることができる。チームラボに行った帰り道は、電車の到着を知らせる電光掲示板の捉え方も違うだろう。それは私たちの世界の捉え方(または立ち位置)が少しズレたからだ。認知の変化で別の例を出すと、発達障害がわかりやすいと思う。病名を知った途端、ある人物の謎行動に説明がつく(と思いたがる)、あの人は〜だからあんなことをするんだ。もしくは、私は〜だからこんなミスをしてしまう。

 

おそらく人の頭がもっとも得意とするのは、不確実なことであろうと確実だと錯覚させることなのだろう。

 後悔の経済学 マイケル・ルイス=著 渡会圭子=訳 50p

 

以上のことが的外れでないとすると、複雑な感情と感覚が近い存在である、ということになる。これに対しては私も懐疑的だ。感情は内面で、感覚は外面なイメージをもつ。もしたらそれらを包括するちょうどいい言葉があるのかもしれないが、まだ見つかっていない。

 

この話に結論はない。ただの思いつきだ。

別の思いつきで言えば、素数の図形的意味について考えがある(考えといっても数学が得意な人の間では常識かもしれない)。

素数でない数字はある2つの数字の掛け算で表すことができる(素因数分解である必要はない)。これはつまり、長方形の面積を求めている、と考えることもできる。

例えば、6は3*2、つまり縦3横2の長方形の面積を出している、と捉えることができる。もう少し大雑把に捉えると、縦3列、横2列にならぶビーズの数を数えている、とも言える。

これを素数に当てはめると、長方形にうまくできない。例えば7は素数だ。これを長方形のようなビーズに並べようとするとうまくいかない。縦3横2にすると1つ余ってしまう。縦4横2にしようとすると1つかけてしまう。

おそらく、これを応用すればmodを図形的に捉えることも可能かもしれない。つまり、ある数を2つ数の掛け算に分解(長方形に並んだビーズを作る)すると、いくつかのビーズがはみ出る。それがあまりだ。そのはみ出方(余り方)には法則があり、長方形と長方形を足し合わせたときにも法則があるかもしれない。

 

このようにある数学的概念を図形的に捉え直すことがたまにできるようだ。私がこれを知ったのはある動画で、その中でどこかの大学の女性が、確率を図形的に捉える方法を紹介していた。

あるところにダーツが好きな少年がいて、彼はあの円形のボードへランダムへダーツを投げる。外れることはないし、どこか一点を狙うわけでもない、完全にランダムだ。

このような理想的条件において(物理や化学の問題を思い出す)、ボードのある場所へダーツが刺さる確率は、ボード全体の面積でその場所の面積を割った値になる。

例えばボードの面積が100で、中心のブルの面積が10だとすると、少年は10/100=10%の確率でブルを当てる、ということになる。

 

ビジュアル・シンカーの脳:「絵」で考える人々の世界、という本を読んだとき(実際にはその本を初回するゆる言語ラジオを聞いた後に読んだ)、私は自分がイメージで考えることを知った。というのも他の人もそうだと思っていた(そもそも他の人がどう考えているか考えたことがなかった)。思い返せば、自分は数学のベクトルや物理の力学が得意だった。どちらも数字を扱うが、イメージ(矢印)も同時に使う。そう考えると、私のIQの高さ(メンサのテストに受かる程度)も、たまたまそのテストが図形的だったから受かっただけだと捉えることができる。医学的なIQには図形以外の要素もあるので、もし別の要素のIQを測るテストがあったならば私の点数は平均以下かもしれない。

 

私はなんでもかんでも(今は主に仕事)パターンで捉えるクセがある。この仕事はこれをやったらこうする、あの仕事とこの仕事の共通点はこれで、ここだけ変えれば問題ない、というふうに、パターンで捉えルーティンにしてしまう。これまでの27年間、そうやってうまくいってきた。バイト含めほとんどの職場において仕事を覚えるのが早く、できる方ではあったが、最近、ある問題にぶつかった。

 

詳細は話せないが、上司が言うには、私の仕事のやり方は「目的」を掴めてない、というのだ。ある仕事には「目的」がある。実際にする作業はもちろんその「目的」を達成するために行われる。しかし、「目的」を理解しなくてもその作業はできる。これが問題だと上司は言う。作業に慣れれば誰でもその作業をこなすことができる。でもそれでは困る。

同時期、別の問題があった。それは仕事上の自分の課題を自分で設定し、その課題を解決する方法を考え、一定期間ごとに上司と振り返る、とう業務が発生したのだ。唐突に始まったその成長プログラムで私は参ってしまった。何度も上司に詰められやり直し、詰められ、やり直し、を繰り返した。大抵の仕事はうまくやれてきた私にとって、一番の難問だった。

 

ある時、私は思った。たぶん、考え方が違うなーって。

 

ビジネス系(仕事のやり方など)の動画を見漁り、卒業したと思っていたビジネス系の自己啓発本を読み漁り、私は何が違うのかわかった。私の考え方はボトムアップだったのだ。つまり何かをやるとき、下流から物事を捉える。仕事をやるとき、「目的」を考えるのではなく、まず作業を覚えようとする。仕事を覚える分には(もしくは作業をこなす分には)それが早いと今でも思う。

読書だってそうだ。私は知的好奇心を満たすために本を読んでいる。これ面白そうだなって思ったら買って読んで満足する。そこに目的はない。楽しむだけだ。でもそれはボトムアップトップダウンでない。

一番参考になったのはコンサル関係の動画と本だった。

大事なのは目的(もしくは論点、イシュー、課題)であり、手段は徹底的に具体化(数値化)し、表現はだれが見ても同じように捉えれるようにしなければならない。そして考える順番は目的→手段であり、決して逆ではない。

5-6冊のコンサル本といっぱいのコンサル動画をみた結論がこれだ。これはトップダウン、目的思考、論点思考、といろんな呼び方があったが、言ってることは同じである。これらを理解してから、例の自己成長プログラムの上司との振り返りは順調だ。特に突っ込まれることもなく(あったとしてもちょっと要素を追加するくらい)順調に成長をこなしているし、実際に考え方や仕事の捉え方自体も変化した。

読書方法も少し変わった。本を読むということに目的を設定するようになった(もちろん小説やエッセイなどは除く)。私はある特定の情報を得たいのであって、それに関係のない枝葉は無視する。読書スピードはあがり、読める冊数は増えた。

 

でもそんなに生真面目には読まなくていい。「この人は何か説明したいことがあって本を書いたはずだ、それは何だろう」というのがまず知りたいところ。それがわかったら次に、「それをどう説明しているのか」に意識を向ける。まずそれができるような拾い読みから始める。

「そんなふうに本を読んでいいのか」と驚く人がいるかもしれない。しかし、電化製品の取扱説明書を想像してほしい。あの手の説明書はすべてを通読することを目的に作られてはいない。(中略)僕は、だいたいの本を「この人は何が言いたくて本を書いたのか」を理解するための説明書として読んでいる。

 翻訳者の全技術 山形浩生 82p

 

話が何度も飛んで申し訳ないが、私はあるときから翻訳という作業(言葉)が気に入ってる。自分の人生は「移動と翻訳」だ、と意気込むほどだ。

世の中にはものすごい速さでアウトプットをだせる人がいる。

私の好きな作家の森博嗣だ。彼は1時間で6000文字書く(ぶっ通しではなく、例えば10分で1000文字というふうに)。引用した山形浩生は日本語の本を読むのと同じくらいの時間で英語の本を読め、読書のスピードと翻訳のスピードもそこまで変わらない(つまり日本語の本を読むスピードで英語の本を翻訳できる)。ふなっしーの通訳をしたことで知られている橋本美穂は、スピーカーのキャラクターに合わせて素早く逐次通訳する。

彼ら彼女らの共通点は、ある言語を(もしくはイメージを)素早く別の言語(多くは日本語)に翻訳しているということだ。この能力はトレーニングで身につけることが可能なのだろうか。もし可能ならどんなトレーニングが有効なのだろうか。ちなみに橋本美穂は常にバイリンガルな状態でいることと、いろんな表現(言い換え)を探すこと、を上げていた。

芸術行為は一種の翻訳であるので、生涯で15万点の作品を書いたとされるピカソも、この圧倒的な翻訳アウトプットをする一人だと考えていいだろう。

 

読むスピードで訳す

(翻訳するスピードは)意識して早くあろうともしているんです。ゆっくり訳すとどうしてもセンテンス単位で訳してしまうけれど、読者は文章の流れで読むわけだから、個々のセンテンスが自己完結していてはダメなんです。読むときの感覚、ノリを訳文で再現するためにも速く訳すべきで、速いから雑ということではないですよ。

 ぼくは翻訳についてこう考えています 柴田元幸 138-139p

 

これより先は上記よりさらに完全な駄文だ。

随分久しぶりに(感覚では数年ぶり)に自分の考えていたことを文章にした。私はよくある疑問やテーマをずっと頭の片隅においておくことがあるが、それを一度、外部に吐き出したほうがいいような気がしたのだ。なんだかゴミが溜まっているような感覚があった。社会人(正社員)になり約1年が経ったが、読書量は変わっていない、むしろ増えているかもしれない。ある程度時間に制約があったほうが物事は前に進む、というのは知っていたが、フリータ時代と比べるといわゆる生産性みたいなものは上がっているのだろう。

世界はトップダウン思考の人が動かしていると思う。イーロン・マスクのように壮大な目標を掲げ、そのためにありとあらゆる手段を模索する。成功もするし、失敗もする。成功や失敗できるのは目的があるからだ。だれかが成功に必要なのは打率よりも打席数だと言った。よく成功者は本を読んでいる、と言うが、トップダウンで考える人が意図的にボトムアップを取り入れている、と考えることもできる。私に足りないのはトップダウン的な考えと、目的だ。

私には目的がない。基本的にだらだら生きていきたいし、どっかの田舎で安いアパートを借りて、テキトーに働いて本が読めたらそれでいい、と思っている。ネットがあれば娯楽に困らない。何かしらのコミュニティに所属したほうが心理的健康上いいだろうが、それは職場や飲み屋が満たしてくれるだろう。私は現状に満足しているのか? 労働環境を除けばおおよそ満足しているだろう。満足してる状態、とうのは目的がないと言い換えることができる。どうどう巡りになってしまった。打席に立っているつもりなのかもしれない。このブログも、ダラダラと続けているということは失敗したという自己満足であって、本心では失敗だと思ってないのかもしれない。

お金のむこうに人がいる 元ゴールドマン・サックス金利トレーダーが書いた 予備知識のいらない経済新入門 田内学

面白いから読んでみて。

いつだって現実逃避したい

 最近、お金について考えることが多くなった。稼いだり、払ったりする、不思議な数字のことだ。自分は誰からお金をもらって、誰にあげているのか、改めて考えてみるとよく分からない。

 精肉店が卸先の焼肉屋にご飯を食べに行くような、無意味な循環のような気がずっとしている。

 

 調べてみると、お金(お札のことは正確には銀行券と呼ぶらしい)は 独立行政法人国立印刷局というところの製品ということだ。そして日本銀行は 銀行券を発行する権能を与えられており、国立印刷局から新しい銀行券を受け取って、これを本店や地方の支店から世の中に払い出している、と書いてある。

 そして、日本銀行は銀行券の発行と引き換えに保有する有利子の資産(国債、貸出金等)から発生する利息収入より、利益を得ている。

 調べたことを書いてみたが、よく分からない。お札を発行できる金貸し屋、という最強の場所なのだろうか。

 

 話を元に戻そう。お金の話だ。お金を何に使っているかといえば、ほとんど全て現実逃避だ。ご飯も服も夜遊びも、全ては現実を忘れるためにある。では現実とはなんだろうか。それはどんな社会に属しているかによる。いわゆる社会人にとって現実とは仕事であり、それ以外の人にとっての現実とは生きることだ。

 

 社会人にとっては仕事(会社)こそが現実である。これは後天的に獲得した価値観だ。原始人はスーツを着ない。そしてその現実は本能を超える時がある。月曜日の線路だ。とても不思議だ。ここで、この場における本能の対義語を文化とすると、文化は本能を上回ることがあるということだ。日本では珍しくない。小さな飛行機のコックピットだ。

 

 ここで寝ることについて考えてみる。寝るのは本能だ。社会的ではない。文化的でもない。しかしそれは現実逃避としてうまく機能する。

 

 世の中のエンタメは全てお客様を現実逃避させるためにある。みんな生きていることを忘れたいのだ。生きるために必要な労働を忘れたいのだ。しかし、労働は生きるために必要ではない。そう思っているだけで、働かずに生活している人はいる。お金持ちの中にも、貧乏人の中にも、働かない人はいる。

 

 会社員は会社の売り上げの一部を給料としてもらう。会社の売り上げは、大衆から得ている。大衆はそれぞれ、別の会社の売り上げの一部を給料としてもらい、そのまた一部を、他の会社の売上の一部として渡している。

 

 お金はどこから来ているのか。お金は銀行からきている。私たちは銀行の製品を買っている。そのお金は誰が払っているのだろう。