ハリウッドは商売だ。誰でも知っていることだが、では何を売っているのか考えてみよう。それは人間の感情だ。感情的体験を映画やテレビという形できれいに包装して販売、年商一兆円を稼ぎ出しているのがハリウッドの正体なのだ。前にも書いたとおり、映画もテレビも「感情マシン」なのだ。
「感情」から書く脚本術 カール・イグレシアス=著 島内哲朗=訳 17p
ハリウッド映画はエンタメだ。ほとんどの純文学読者は、あれを純文学であると認めないだろう。
よくある話題に、純文学とエンタメ小説の違いはないか、というのがある。海外にそんな区別はない、という話を聞くし、実際に区別したからなんだ、という意見もある(久しぶりに芥川賞がでなかったようですね)。
エンタメが感情を売っているとするならば、純文学は欲望を売っている、といってもいいかもしれない。欲望は複雑な感情だ。プレゼントをもらってハッピーは感情で、嫌いな上司がミスをしてハッピーは欲望だ。
もう一つの考え方として、エンタメが感情を売っているならば、純文学は感覚を売っている、というのがある。これは純文学を芸術と捉えた場合だ。芸術は私たちに新たな感覚を提供していくれる。これは認知と言い換えることができる。チームラボに行った帰り道は、電車の到着を知らせる電光掲示板の捉え方も違うだろう。それは私たちの世界の捉え方(または立ち位置)が少しズレたからだ。認知の変化で別の例を出すと、発達障害がわかりやすいと思う。病名を知った途端、ある人物の謎行動に説明がつく(と思いたがる)、あの人は〜だからあんなことをするんだ。もしくは、私は〜だからこんなミスをしてしまう。
おそらく人の頭がもっとも得意とするのは、不確実なことであろうと確実だと錯覚させることなのだろう。
後悔の経済学 マイケル・ルイス=著 渡会圭子=訳 50p
以上のことが的外れでないとすると、複雑な感情と感覚が近い存在である、ということになる。これに対しては私も懐疑的だ。感情は内面で、感覚は外面なイメージをもつ。もしたらそれらを包括するちょうどいい言葉があるのかもしれないが、まだ見つかっていない。
この話に結論はない。ただの思いつきだ。
別の思いつきで言えば、素数の図形的意味について考えがある(考えといっても数学が得意な人の間では常識かもしれない)。
素数でない数字はある2つの数字の掛け算で表すことができる(素因数分解である必要はない)。これはつまり、長方形の面積を求めている、と考えることもできる。
例えば、6は3*2、つまり縦3横2の長方形の面積を出している、と捉えることができる。もう少し大雑把に捉えると、縦3列、横2列にならぶビーズの数を数えている、とも言える。
これを素数に当てはめると、長方形にうまくできない。例えば7は素数だ。これを長方形のようなビーズに並べようとするとうまくいかない。縦3横2にすると1つ余ってしまう。縦4横2にしようとすると1つかけてしまう。
おそらく、これを応用すればmodを図形的に捉えることも可能かもしれない。つまり、ある数を2つ数の掛け算に分解(長方形に並んだビーズを作る)すると、いくつかのビーズがはみ出る。それがあまりだ。そのはみ出方(余り方)には法則があり、長方形と長方形を足し合わせたときにも法則があるかもしれない。
このようにある数学的概念を図形的に捉え直すことがたまにできるようだ。私がこれを知ったのはある動画で、その中でどこかの大学の女性が、確率を図形的に捉える方法を紹介していた。
あるところにダーツが好きな少年がいて、彼はあの円形のボードへランダムへダーツを投げる。外れることはないし、どこか一点を狙うわけでもない、完全にランダムだ。
このような理想的条件において(物理や化学の問題を思い出す)、ボードのある場所へダーツが刺さる確率は、ボード全体の面積でその場所の面積を割った値になる。
例えばボードの面積が100で、中心のブルの面積が10だとすると、少年は10/100=10%の確率でブルを当てる、ということになる。
ビジュアル・シンカーの脳:「絵」で考える人々の世界、という本を読んだとき(実際にはその本を初回するゆる言語ラジオを聞いた後に読んだ)、私は自分がイメージで考えることを知った。というのも他の人もそうだと思っていた(そもそも他の人がどう考えているか考えたことがなかった)。思い返せば、自分は数学のベクトルや物理の力学が得意だった。どちらも数字を扱うが、イメージ(矢印)も同時に使う。そう考えると、私のIQの高さ(メンサのテストに受かる程度)も、たまたまそのテストが図形的だったから受かっただけだと捉えることができる。医学的なIQには図形以外の要素もあるので、もし別の要素のIQを測るテストがあったならば私の点数は平均以下かもしれない。
私はなんでもかんでも(今は主に仕事)パターンで捉えるクセがある。この仕事はこれをやったらこうする、あの仕事とこの仕事の共通点はこれで、ここだけ変えれば問題ない、というふうに、パターンで捉えルーティンにしてしまう。これまでの27年間、そうやってうまくいってきた。バイト含めほとんどの職場において仕事を覚えるのが早く、できる方ではあったが、最近、ある問題にぶつかった。
詳細は話せないが、上司が言うには、私の仕事のやり方は「目的」を掴めてない、というのだ。ある仕事には「目的」がある。実際にする作業はもちろんその「目的」を達成するために行われる。しかし、「目的」を理解しなくてもその作業はできる。これが問題だと上司は言う。作業に慣れれば誰でもその作業をこなすことができる。でもそれでは困る。
同時期、別の問題があった。それは仕事上の自分の課題を自分で設定し、その課題を解決する方法を考え、一定期間ごとに上司と振り返る、とう業務が発生したのだ。唐突に始まったその成長プログラムで私は参ってしまった。何度も上司に詰められやり直し、詰められ、やり直し、を繰り返した。大抵の仕事はうまくやれてきた私にとって、一番の難問だった。
ある時、私は思った。たぶん、考え方が違うなーって。
ビジネス系(仕事のやり方など)の動画を見漁り、卒業したと思っていたビジネス系の自己啓発本を読み漁り、私は何が違うのかわかった。私の考え方はボトムアップだったのだ。つまり何かをやるとき、下流から物事を捉える。仕事をやるとき、「目的」を考えるのではなく、まず作業を覚えようとする。仕事を覚える分には(もしくは作業をこなす分には)それが早いと今でも思う。
読書だってそうだ。私は知的好奇心を満たすために本を読んでいる。これ面白そうだなって思ったら買って読んで満足する。そこに目的はない。楽しむだけだ。でもそれはボトムアップでトップダウンでない。
一番参考になったのはコンサル関係の動画と本だった。
大事なのは目的(もしくは論点、イシュー、課題)であり、手段は徹底的に具体化(数値化)し、表現はだれが見ても同じように捉えれるようにしなければならない。そして考える順番は目的→手段であり、決して逆ではない。
5-6冊のコンサル本といっぱいのコンサル動画をみた結論がこれだ。これはトップダウン、目的思考、論点思考、といろんな呼び方があったが、言ってることは同じである。これらを理解してから、例の自己成長プログラムの上司との振り返りは順調だ。特に突っ込まれることもなく(あったとしてもちょっと要素を追加するくらい)順調に成長をこなしているし、実際に考え方や仕事の捉え方自体も変化した。
読書方法も少し変わった。本を読むということに目的を設定するようになった(もちろん小説やエッセイなどは除く)。私はある特定の情報を得たいのであって、それに関係のない枝葉は無視する。読書スピードはあがり、読める冊数は増えた。
でもそんなに生真面目には読まなくていい。「この人は何か説明したいことがあって本を書いたはずだ、それは何だろう」というのがまず知りたいところ。それがわかったら次に、「それをどう説明しているのか」に意識を向ける。まずそれができるような拾い読みから始める。
「そんなふうに本を読んでいいのか」と驚く人がいるかもしれない。しかし、電化製品の取扱説明書を想像してほしい。あの手の説明書はすべてを通読することを目的に作られてはいない。(中略)僕は、だいたいの本を「この人は何が言いたくて本を書いたのか」を理解するための説明書として読んでいる。
翻訳者の全技術 山形浩生 82p
話が何度も飛んで申し訳ないが、私はあるときから翻訳という作業(言葉)が気に入ってる。自分の人生は「移動と翻訳」だ、と意気込むほどだ。
世の中にはものすごい速さでアウトプットをだせる人がいる。
私の好きな作家の森博嗣だ。彼は1時間で6000文字書く(ぶっ通しではなく、例えば10分で1000文字というふうに)。引用した山形浩生は日本語の本を読むのと同じくらいの時間で英語の本を読め、読書のスピードと翻訳のスピードもそこまで変わらない(つまり日本語の本を読むスピードで英語の本を翻訳できる)。ふなっしーの通訳をしたことで知られている橋本美穂は、スピーカーのキャラクターに合わせて素早く逐次通訳する。
彼ら彼女らの共通点は、ある言語を(もしくはイメージを)素早く別の言語(多くは日本語)に翻訳しているということだ。この能力はトレーニングで身につけることが可能なのだろうか。もし可能ならどんなトレーニングが有効なのだろうか。ちなみに橋本美穂は常にバイリンガルな状態でいることと、いろんな表現(言い換え)を探すこと、を上げていた。
芸術行為は一種の翻訳であるので、生涯で15万点の作品を書いたとされるピカソも、この圧倒的な翻訳アウトプットをする一人だと考えていいだろう。
読むスピードで訳す
(翻訳するスピードは)意識して早くあろうともしているんです。ゆっくり訳すとどうしてもセンテンス単位で訳してしまうけれど、読者は文章の流れで読むわけだから、個々のセンテンスが自己完結していてはダメなんです。読むときの感覚、ノリを訳文で再現するためにも速く訳すべきで、速いから雑ということではないですよ。
ぼくは翻訳についてこう考えています 柴田元幸 138-139p
これより先は上記よりさらに完全な駄文だ。
随分久しぶりに(感覚では数年ぶり)に自分の考えていたことを文章にした。私はよくある疑問やテーマをずっと頭の片隅においておくことがあるが、それを一度、外部に吐き出したほうがいいような気がしたのだ。なんだかゴミが溜まっているような感覚があった。社会人(正社員)になり約1年が経ったが、読書量は変わっていない、むしろ増えているかもしれない。ある程度時間に制約があったほうが物事は前に進む、というのは知っていたが、フリータ時代と比べるといわゆる生産性みたいなものは上がっているのだろう。
世界はトップダウン思考の人が動かしていると思う。イーロン・マスクのように壮大な目標を掲げ、そのためにありとあらゆる手段を模索する。成功もするし、失敗もする。成功や失敗できるのは目的があるからだ。だれかが成功に必要なのは打率よりも打席数だと言った。よく成功者は本を読んでいる、と言うが、トップダウンで考える人が意図的にボトムアップを取り入れている、と考えることもできる。私に足りないのはトップダウン的な考えと、目的だ。
私には目的がない。基本的にだらだら生きていきたいし、どっかの田舎で安いアパートを借りて、テキトーに働いて本が読めたらそれでいい、と思っている。ネットがあれば娯楽に困らない。何かしらのコミュニティに所属したほうが心理的健康上いいだろうが、それは職場や飲み屋が満たしてくれるだろう。私は現状に満足しているのか? 労働環境を除けばおおよそ満足しているだろう。満足してる状態、とうのは目的がないと言い換えることができる。どうどう巡りになってしまった。打席に立っているつもりなのかもしれない。このブログも、ダラダラと続けているということは失敗したという自己満足であって、本心では失敗だと思ってないのかもしれない。
お金のむこうに人がいる 元ゴールドマン・サックス金利トレーダーが書いた 予備知識のいらない経済新入門 田内学
面白いから読んでみて。