純文学というのは形而上学くらい分からないものだ。
Wikipediaによると
大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語。
と書いてある。
コマーシャルアートとファインアートのように捉えることができそうだが、文学の芸術性というのがよく分からない。
一般に理解されないものが高級なのだろうか?
また、娯楽性が高い=売れる、芸術性が高い=売れない、とも言い切れない。
太宰治の『斜陽』が反例の一つとなるだろう。
美しい文章というのは文法的に正しいとも捉えることができるし、ラノベが校正されていない訳ではない。
話が変わるように思えるが、押井守監督は物語を
"世界観"→"ストーリー"→"キャラクター"
という順に作るらしい。
また、ハリウッドで成功する作品は逆から作られるとも言っている。
ここで言う"作品"とは映像作品である。
この型を小説において考えてみよう。
小説は映像とは違う。何が違うのか。
文字でしか表現できないことである。
世界観,ストーリー,キャラクター、全て文字を使った演出で表さなくてはならない。
ここで"純文学とはなにか?"という疑問に戻ってくる。
映像の中に文字を入れることが可能なため、つまり情報量で見た時
文字(小説)→文字+挿絵(ラノベ)→文字+絵(漫画)→文字+絵+音(映像作品)
と考えると、映像作品が小説を含んでいる(映像作品⊃小説)と見えるが、実際にはそうならない。
絶妙なラインのように思える↓
映像作品では使えず、小説だけでしか使えない表現(演出)があるのではないか、その表現を多めに使ったのが純文学のような気がした、それだけである。
それでは叙述トリックや言葉遊び、文章のテンポはどうなるだろうか?一見小説特有のように思えるが違うと私は考える。
叙述トリック→カメラワーク
言葉遊び→セリフとテロップ
文章のテンポ→カット
のように多くの場合、変換が可能である。
私が考えるに、最も違い分かりやすいのは描写である。描写には心理描写と人物描写、風景描写とあるが、差が出るのは"心理"と"風景"だろう。人物と比べ抽象的である。
以上、深夜の思いつきでした。