開けきれない箱

暇人が様々な物事に関しての意見・考察を書きます。https://twitter.com/HKnumber

純文学とはなにか。

純文学というのは形而上学くらい分からないものだ。

Wikipediaによると

大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語。

と書いてある。

コマーシャルアートとファインアートのように捉えることができそうだが、文学の芸術性というのがよく分からない。

一般に理解されないものが高級なのだろうか?

また、娯楽性が高い=売れる、芸術性が高い=売れない、とも言い切れない。

太宰治の『斜陽』が反例の一つとなるだろう。

美しい文章というのは文法的に正しいとも捉えることができるし、ラノベが校正されていない訳ではない。

 

話が変わるように思えるが、押井守監督は物語を

"世界観"→"ストーリー"→"キャラクター"

という順に作るらしい。

また、ハリウッドで成功する作品は逆から作られるとも言っている。

ここで言う"作品"とは映像作品である。

 

この型を小説において考えてみよう。

小説は映像とは違う。何が違うのか。

文字でしか表現できないことである。

世界観,ストーリー,キャラクター、全て文字を使った演出で表さなくてはならない。

 

ここで"純文学とはなにか?"という疑問に戻ってくる。

映像の中に文字を入れることが可能なため、つまり情報量で見た時

文字(小説)→文字+挿絵(ラノベ)→文字+絵(漫画)→文字+絵+音(映像作品)

と考えると、映像作品が小説を含んでいる(映像作品⊃小説)と見えるが、実際にはそうならない。

絶妙なラインのように思える↓

https://youtu.be/p0TOUpl1ADU

https://youtu.be/LXs2z3Q1w2Y

映像作品では使えず、小説だけでしか使えない表現(演出)があるのではないか、その表現を多めに使ったのが純文学のような気がした、それだけである。

 

それでは叙述トリックや言葉遊び、文章のテンポはどうなるだろうか?一見小説特有のように思えるが違うと私は考える。

叙述トリック→カメラワーク

言葉遊び→セリフとテロップ

文章のテンポ→カット

のように多くの場合、変換が可能である。

 

私が考えるに、最も違い分かりやすいのは描写である。描写には心理描写と人物描写、風景描写とあるが、差が出るのは"心理"と"風景"だろう。人物と比べ抽象的である。

 

以上、深夜の思いつきでした。